サッカー日本代表が1-0とリードし、今まさに初のワールドカップ出場の切符を手に入れようかという後半ロスタイムに悪夢が訪れました。イラク代表に与えたコーナーキックからまさかの同点ゴール。日本のワールドカップ初出場はその瞬間、夢と消えました。
あまりに有名な日本サッカー史における「ドーハの悲劇」ですが、このとき「日本は時間稼ぎをするべきだった。ボール回しとかしていれば良かったものを攻め込んだ結果、相手にボールが渡って反撃をされ、コーナーキックを与えた」という意見がいくつもありました。
ドーハの悲劇の例に限らず、サッカーの国際試合では日本人はバカ正直でそれで勝てないという意見をしばしば見ます。もっとずる賢くなることを覚えないといけない、と。
外国の選手はリードしていると試合終盤に時間稼ぎをする、わざと倒れて審判を騙してフリーキックやPKを貰うなどしている。アルゼンチンなど南米の選手には特にその傾向が強く、ある日本の選手はアルゼンチン代表のことを「巧くて汚い」と表現していました。この「汚い」というのが手段を選ばないということを指しています。
これは言わば「ずる賢い奴が勝ち、正直者はバカを見る」という話しでもあります。
「目的は手段を正当化する」と言ったのは、イタリアの政治思想家のニッコロ・マキャヴェッリで、そのような人のことをマキャベリストと言います。では、常に日本人選手はマキャベリストであるべきなのでしょうか。それとも、私たちは目的のために常に手段は選ばないといけないのでしょうか。
格闘技では、目や急所を攻撃することは禁止されています。ですが、もし暴漢に襲われて命の危機に瀕している場合は、急所を攻撃することは身を守る上で有効な手段となります。このケースにおいては「急所を狙うのは卑怯だ」などとは誰も言わないでしょう。これは、目的のためには手段を選ばないことが正しい例です。
前述のサッカーの例では、わざと倒れてPKを獲得したり時間稼ぎなどの卑怯な手段を使って勝ったのでは意味がないという考えの人もいれば、「good loser(美しい敗者)などと言ったところで、人々の記憶に残るのは勝者だけ。敗者は忘れ去られてしまう。勝たなければ意味がない」という意見の人もいます。つまり、手段を選ぶ必要があるかは状況や場合によるし、それぞれの人の何を重要視するかという考えにもよるということです。
ですが、個人として「正直であるという美徳を実践して生きる」ということに価値感を置いているなら、何を目的にするにも手段は無視できません。もし正直であるというルールを破ってしまったら、(その価値感に偽りがなければ)その目的は達成したとしても、自分にとってはもう価値を持たなくなってしまうはずです。
例え周りから見たらバカを見るようなことになっても、それは損になりません。むしろ正直な行為に背いた方が損になります。もし、正直なことをした結果、バカを見たと思うのであれば、それは「ずる賢い奴の勝ち」という価値感を持っている人たちと同じレベルの価値感で生きていることになります。
注意しなければならないのは、「正直」と「お人好し・融通が利かない」を混同しないことです。人の頼みを断れなくて(面倒な用事を押し付けられて)いつも苦労するハメになる。これは正直ではなくお人好しなだけです。仕事でマニュアル通りのやり方しかできず、作業を効率的に改善できない。これも正直な人ではなく、不器用で融通が利かない人です。(実際、世間で言う「正直者がバカを見る」というセリフには、「融通か利かない奴」というニュアンスも含まれています)
これらは、意志を持ってそうしているのではなく、生まれつきの性格上、仕方なくそうなってしまっているだけであり、これは直すべき改善点です。
ドーハの悲劇からかなりの歳月が経ち、現在(2019年時点)では日本は毎回、ワールドカップに出られるようになりました。ワールドカップで日本代表の試合があると、渋谷で若者がお祭り騒ぎをするのが恒例になっているようです。そしてそのバカ騒ぎが終わり、人がまばらになった道路にはゴミが散乱しています。
ニュース映像で、道に散乱したゴミを掃除している人が映し出されました。掃除をしている人は騒いでいた人たちではないようです。では、楽しく騒いで面倒な掃除はしなくて帰ってしまう人が得で、騒がず掃除だけしている人はバカを見ているのでしょうか?
掃除をしている人が強制されて嫌々やっているならそうかもしれませんが、こういう人たちは自ら進んでやっています。つまりバカを見ているのではなく、美徳を実践しているという得をしている人たちなのです。その得はバカ騒ぎよりずっと素晴らしい得です。
私も騒いでゴミを散らかすより、散らかったゴミを拾う側でありたいと思います。(「言うは易し、行うが難し」ではありますが)