「いい歳して」と言われることをしていないか自分を省みる

これまで生きてきて、他人との会話の中でその場にいない第三者の話題が出て、「あの人、いい歳してこんなことやってるんだよ」とか、「いい歳してあんな格好して」などのセリフに出くわしたことがないでしょうか。大抵の人は一度や二度はあると思います。もしくは、あなた自身が誰かのことをそう思ったこともあるかもしれません。この「いい歳して」というよくあるセリフから重要なことが読み取れます。

私は、「大人になる」「年齢を重ねていく」というのは、知性と品性を高めていくことだと考えています。子供は、知性と品性が低いから子供であるのです。

これは、私独自の見解ではなく、世間一般の見解でもあります。それは、前述した「いい歳して」という日常でよくあるセリフで分かります。「いい歳して」という言葉は、詳しく言えば「年齢相応の知性や品性が欠けている」ということです。「大人になったら年齢相応の知性と品性を持つべきである」ということが、世間の人もちゃんと分かっているのです。ただ、私のように明確に定義して意識していないだけです。

歳をとってくると「若い」と言われることに嬉しさを覚えてくるものです。肌の色ツヤや姿勢、歩き方などが「若い」といわれるのは良いことですが、やっていることや言動、身なりなどが「若い」などと言われて気をよくしてはいけません。そのままの感想を言うわけにいかないから無理矢理、良いように言っていることは多々あります。「若い」は気力・体力の充実という点では良いことで、褒め言葉です。しかし、それら以外で「若い」と言ったら「精神的に未熟である」という意味合いが強くなります。「若気の至り」という言葉が「若さゆえに出た未熟さ」という意味であることからも分かるように、「精神的に若い」と言ったら未熟という意味なのです。

外見は普通、年齢相応に歳をとっていきます。しかし、人間性や人格といった「中身」は、自動的に年齢相応に成長しくものではありません。子供じみた大人というのも世の中には多く存在します。大人になるということは知性と品性を高めていくことと言いましたが、大人になると生きた年数相応に「知識」は増えるものです。ですが、「知識」が多く「知性」が低いと何でも自分を正当化して平気でいられる人間性の低い大人になってしまいやすくなります。

普通は面と向かって「いい歳してそんな格好してない方がいい」とか「いい歳してそんなことやってない方がいい」などと他人は言ってくれません。思うだけで言わないか、もしくは陰口です。(本人に直接、言う人がいたとしても、家族や友人などの親しい間柄の人くらいでしょう)だから「自分は言われたことがない」と思っても実際はわかりません。大事なことは、自分を省みて、行動、言動、習慣、身なりや外見などが「いい歳して」と思われることではないか考えてみることです。自分は年齢不相応のことをやっていないか?「若気の至り」のままや「大人気ない」まま生きていないか?そう自分を見てみましょう。

私も日常生活の中で関わる人たちやインターネットなどを見ていて、少なからずそう思える人を見かけます。ですが、具体的にどのようなことが「いい歳して」に該当するのか、ここで具体例は挙げません。具体例を挙げてそれに該当する人が読んだら、気分を悪くさせてしまいます。上記でも書いた通り、自分で省みて判断することが大事です。「自分は該当しない」と思えるのであえば、それで良いと思います。しかし、いくらでも自分の都合の良いように解釈はできます。周囲の皆から「いい歳して」と思われているのを「自分は若い感覚を持っている」と都合よく解釈して変えなければ、知性も品位もずっと未熟なままです。(私が過去に行っていた会社でもいい歳をした「こども大人」を多く見ています)

「例え陰で何を言われようと思われようと、自分は気にしないし平気だ」と思う人もいるかもしれませんが、私がこれを提唱するのは、陰口を言われたら嫌だからというわけではありません。充実した人生を生きる上で、知性と品性を高めるということは重要な要素であると考えているからです。そして、高めていく以前にまず年齢に不相応なことを正していくことが先決で、それを自覚するのに良い一つの指標が「いい歳して」と言われることをやっていないか?と考えてみるということです。

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