「人生は死ぬまでの暇つぶしと気がついたら急に気が楽になった」というような発言をインターネット上で見たことがあります。「どうせみんないつか死んでしまう。死んだら全てが消えて無くなる」ということが理由なのでしょう。本当にそうなのでしょうか。この件についての私の意見と主張を書きたいと思います。
「暇つぶしだと分かった」というのは、「価値がないと分かったので入れ込んでも仕方ない」という見解です。これは「人生に意味はあるか?」というテーマと同じ意味です。これは本やエッセイのテーマでも古くからよくあるものであり、哲学のテーマとしてもよく取り上げられるものです。
まず、そもそも「意味(および価値)」とは人間の認識間で共有している概念であり、その外側から与えられるものではありません。過去に「神が与えた試練である」とか「神のギフトである」とか、何度もそういう文章を読みましたが、どのような意味があるかはその人がどう定義したり考えたりするかによるものです。「神が与えたものでなければ、なぜ人間のような生き物がこの世に誕生したかの説明がつかない。必ず何か意味があるはずだ」と言っても、自然の中では他の生き物同様、人間も「何故かこの世に誕生した」ということ以外にありません。
ではやはり意味はないのでしょうか。そんなことはありません。何故なら、我々人間は意味や価値という共通認識の枠内でしか生きられないからです。「人生に意味はないから、自分はそんなものは関係ない」と悟ったようなつもりになったところで何にもなりません。「意味がない」という意見は、人間の共通認識の世界の外側の位置から相対的に見たことであり、その外側へ行って生きる方法がない限りはまさしく意味をなさない意見です。
人間だけは他の生き物と異なり、脳に高度な部分が備わっています。脳に障害が無ければ、五感で受け取った感覚や文字や声で入ってくる言葉などは全て脳の中のある種のフィルターを通してしか受け取れないようになっています。それは意識するしないに関わらず「意味と価値」を自動認識し、感覚的に受け取ります。(具体的には、真偽・善悪・美醜といったものの判断です)人間は、その概念の中でしか生きることができない回路が脳に組み込まれて生まれてくるのです。それは外せませんし、もし外したら外見は人間であっても動物と同じレベルになってしまいます。
意味と価値の世界の中に棲む、それが人間たる所以です。人間がこの世に生きているのは、まず意味があるという前提になっているのです。ついでに言うと、動物などの人間以外の生き物には、生きる意味を問うても意味がありません。人間は動物などの生き物の存在について、「動物がこの世にいるのは、このような意味がある」と考えることはできますが、それは人間にとって意味があることであり、動物にとっては意味がありません。人間以外の生物は意味と価値の世界に生きていないからです。
「死ぬまでの暇つぶし」というのは、無数にある解釈のひとつです。人生が思い通りにいかない不満や努力などをしたくないという気持ち、他人の成功や幸福を羨望の眼差しで見たくないという心理から解放されたいという動機が根底にあり、多くは「酸っぱいぶどうの原理」であると思います。「成功のために努力して苦労したり、成功して喜んでも本当は何も意味が無いのに」というのは正に「あの高いところにある(獲れない)ぶどうは、どうせ酸っぱいから獲っても意味がない」というのと同じです。どうにもならないことに対して都合のよい解釈で自分をフォローするというのは、精神を守るという点でもとても大切なことであると思います。しかし、人生に価値があるかについての解釈がこれだと勿体無いというのが私の意見です。
人生に意味はなく、目的などは不要であると定義してしまうと「今が楽しければいい」「楽しんだもの勝ち」という即物的で刹那的な生き方にならざるえを得ません。意味と価値の世界に生きない動物などはそれで良いですが、人間には人間だけにしか存在しない高次元の喜び・幸福があります。
繰り返しますが、人間は全ての生き物の中で唯一、意味と価値という共通認識の世界の中を生きています。意味と価値の高い生涯を送ることが、人間として至上の幸福を得ることができるのです。
もちろん、その人自身の人生ですから、自分の人生をどのように生きるかの選択の自由はあります。人生に意味はないと決めて、ただ不快を避けて快楽を求める刹那的な生き方をするのを否定する権利は誰にもありません。ですが、やはり人間に生まれてきたのなら、人間にしか得られないもっと上のレベルの幸福・人生を目指すことを私は勧めたいと思います。
(では、具体的にどうすればそのような人生にしていけるのか?ということについては、このコラムで今後、書いていくことになるでしょう)